新型肺炎を考える(2)

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国内における新型コロナ肺炎は、クルーズ船からの下船が始まる一方、北海道から沖縄までの15都道府県で国内感染が認められる(2月21日現在)など、新たな段階に入ってきています。

国内感染では、海外渡航歴がない方、子供にも感染が認められるなど、感染経路がはっきりしない症例も出てきており、国民の間にも不安が広がりかねない状況になっています。これらに加え、クルーズ船の乗客の方から2名の死亡例が出たり、陰性の乗客が更なる隔離措置を取られることもなく、帰宅したことなどをもって、政府の措置が適切であったのか、これからもメディア中心にバッシングが進むものとも考えられます。(これは前回の「新型肺炎を考える」で述べた「バイアス」(行き過ぎ)の影響とも考えられます)

また、神戸大学感染症内科の教授がクルーズ船内の状況について、「酷い状況であった」とYouTubeで告発したことが話題になりました。(YouTubeはその後削除)

これら新型肺炎をめぐる一連の状況を考えると、感染対策が不十分であると批判する意見、症例拡大という残念な結果は出ているが政府は懸命な措置をとっているという擁護する意見が相混ぜになっている感じがします。

このよう中で、神戸大学教授の告発を巡るSNSの議論を見ていたら、神戸大学教授の議論は「部分適切」、同時期に船内で感染対策に携わっていた医師(2人は知人関係)が神戸大学教授に反論した議論は「全体適切」とするものであるという意見を耳にすることができました。そしてお互いの議論は「相補的」であるとも評しています。

そこで今回は、「部分適切」「全体適切」について考えてみたいと思います。

そもそもこの「部分適切」「全体適切」という話は、経済学、経営学で使用されているものであるようです。

私なりの理解では、部分適切の集合体は必ずしも全体適切にはならないということです。部分適切の議論は「正論」が多いように感じます。「仰る通り」というものですね。今回の神戸大学教授の議論もそうですね。感染、非感染の動線がはっきりとしておらず、患者との接触(偶意的なものも含む)も避けられないので、感染リスクが野放しになっているというものです。(この点は、知人の医師によって否定された他、教授は接触リスクが改善されたということでYouTubeを削除しました)この議論は、物事の一部だけを切り出して評論することになりやすく、注意が必要であると感じます。

一方、知人医師の議論はクルーズ船内のマネジメントには、乗員、乗客、検疫、医療など多くの階層があり、これをトータルとしてまとめる全体的なコントロールが求められる状況であるということです。ここには個別議論への対応は当然のことながら求められる一方、全体を俯瞰した視点も求められます。この両者の間で適切解を求めることが「全体適切」につながるものではないかと私は考えています。先のSNS議論で、「相補的」と言われるものはこのことなのでしょう。

「部分適切」「全体適切」の議論の中で注意するべき点は、部分に捉われて全体視感を忘れてしまうことと、全体に捉われて部分を捨て去ってしまうことでしょう。いずれも冷静な議論を導くには至らないと考えます。

物事を断面で切り取るように簡単に判断できるものはありません。一刀両断という判断がありますが、判断に裏打ちされた理解と認識をもとに行われるものであればともかく、思考停止した判断は害があって益がありません。その判断が「正論」と言われるものに近ければ近いほど、その議論をめぐる全体状況をよく考えながら、判断する必要があるのではないでしょうか。いうなれば一度立ち止まって考えてみるということです。

今夏の新型コロナ肺炎では、全体像が見えないだけに色々な議論が噴出しています。しかし、これらも事態の進行に伴って適切な議論に収束してゆくと私はそう考えていますし、そうなって欲しいとも考えています。

 

shumaishunchan